吉田松陰「留魂録」
現代語訳・解説 城島明彦
留魂録(りゅうこんろく)は、吉田松陰が後に安政の大獄(1859年(安政6年))と呼ばれる
処刑前日に松下村塾の門弟のために著した遺書です。一日半かけて書き上げた約五千
文字の檄文は、二部作成されました。
≪冒頭の句≫
身ハたとひ武蔵の野辺に
朽ぬとも留置かまし大和魂
十月念五日 二十一回猛士
ただし、その実がモミガラなのか粟なのかは、私自身にはわからない。
もしも同士諸友が、ささやかなわが志を憐れんでくれ、継承してくれる人がいる限り、
その種は先々まで絶えることなく生き続け、年を経ても、また立派に花を咲かせ、見事な
稲穂を実らせるはずである。P51
≪最後の句≫
心なることの種々かき置きぬ思い残せることなかりけり
呼び出しの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな
討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ
愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々
七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめ哉
十月二十六日黄昏書す 二十一回猛士
行動哲学というと難解な理論を連想する人もいるかもしれないが、松陰のそれは単純明
快である。そのことは、松陰が残した次の三十一文字からも読み取ることができる。
かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ 大和魂 P150
徳富蘇峰「吉田松陰」
彼の事業は短けれども、彼の教訓は長し。為す所は多からざるも、教うる所は大なり。
維新革命の健児として彼の事業は、あるいは歴史の片影に埋もるべし。然れども革新者
の模範として、日本男児の典型として、長く国民の心を燃やすべし。彼の生涯は血ある
国民詩歌なり。彼は空言を以て教えず、活動を以て教えたり。この教訓にして不朽なら
ば、かれもまた不朽なり。即ち松陰死すもなお死せざりなり。P268
吉田松陰は死ぬことによって、門下生や後世に大きな影響を与えた人です。高杉晋作、
久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋・・・。その人たちからまた影響を受けた人が広がり、
”明治維新の種を蒔いた(P268)”だけではなく、近代日本の礎に影響し、現代にも多く
の指針になっています。
大河ドラマ「花燃ゆ」を見た時に、家族はたいへんだと思いました。しかし、吉田松陰の
家族故に後世に名を残しました。「花燃ゆ」の第一回は、名作だと思います。
2020.1.3
3日まで正月休みです。
今日は、アフリカンサファリから別府の山地獄に行ってきました。
いつも以上に観光客がいました。